ラッセル『哲学入門』④第2章研究

第2章のタイトルは、

物質は存在するか。

サブタイトルを僕がつけるとすれば、

試されるラッセル。

なぜなら…ラッセルは、

肯定的で建設的なこと

が言えることに集中するとまえがきで宣言していたからです(我ながらしつこい(^-^;)。

第1章では、常識を壊しただけで何も肯定的で建設的なことは言えてません。

なので本領発揮はここから。

ここで、

物質が存在すること

を彼は証明しなければなりません。

まずは要約…の前に、第一章のおさらいから。

第一章現象と実在のおさらい

私達が経験から直接的に得られるのは現象であり、実在ではない。

ところで実在って?そもそも存在するのか?

(現象も実在もわかりにくいので、以下ラッセルの実例を用いて言い換える)

具体例で言うと、実在は

感覚されることから独立したテーブルそのもの

のこと。

見たり触ったりしていないときも存在しつづけるもの

としてのテーブルと言っても良い。

目の前にテーブルが見えたとき、

そこにテーブルが存在する

と思いますしそのように表現したりします。

そしてこの言葉は、感覚と無関係にもテーブルは存在する、つまりは実在として存在することを匂わせます。

しかし、テーブルの視覚などの感覚からの情報だけからそこまで言ってしまっていいのか。

なぜなら、茶色く見えたその色は、角度によって変わるし、光の加減でも変わります。

このような、テーブル以外の要因を除外したテーブルそのものとでも言うようなもの(実在)は、どうやら感覚を用いている限りは知りようがなさそうです。

ということは、そもそも実在なんてものは無いのかもしれない。

実在について妙なことをいう哲学者はいても、実在が存在するかどうかを疑うようなことは基本的にないのですけど、なぜかラッセルは問います。

実在としてのテーブルは存在するのか

第二章要約

物質が存在しないということはどういうことか?

人間は色々なものを感じて、そこに何かがあるように感じるが、実際には何もない。としたら?

これは、要するに

存在するのは私の心だけ

という世界観だ。

感覚はすべて私の心が作り出した幻影のようなもの。

そんな世界観イヤだけど、困ったことに論理的な不都合はパッと見では見当たらない‥

だから、なんとかして

否定してやりたい!

まず、前章で確認した、確かなところから話を始める。

センスデータは確かに存在する。

それが間違っていたり、その背後に何もない可能性はある。

しかし、センスデータ自体が存在しない、とはいえないのだ。

※センスデータは感覚により受け取った情報のことで、おそらくは感覚に解釈を付加したもの。ラッセルは感覚により直接知ったもの、としているが、感覚とは異なるらしい。ので、解釈が加わっているのかな?と僕は考えてます。具体例は色、音、におい、などなど。

どうしてそう言えるかを明らかにしておくため、デカルトに登場してもらう。

彼はどう考えたか?

欺く神

というものを想定してみよう。欺く神は私に間違った判断をさせるのだ。

(ラッセルが述べたわけではないが、本当は存在しないテーブルが存在するように勘違いさせる、といったことが考えられるでしょう)

よって、感覚や知覚は間違っているかもしれない。

かもしれない、なら、疑ったままにしておく。

これがデカルトの

方法的懐疑

という手法だ。

敢えて意図的、確かなものにたどり着くための「方法」として疑ってみるのだ。
(ラッセルは懐疑とのみ述べているが、慣行に則って方法的懐疑とした方が分かりやすいと思ったのでそのように表記しておきます)

この手法を使っても疑うことができないものがあれば、それは確かなものと言えるだろう。

デカルトが見つけた、方法的懐疑を用いても疑い得ないと言えるものは

自分が存在すること

だ。

なぜなら、仮に欺く神がデカルトに「自分が存在する」と誤認させているとしても、

欺く対象としての何かが存在しなくてはならない。

つまり、自分は

存在しなくてはならない。

もっとも、ラッセルに言わせれば、デカルトの「自分が存在する」には余計な情報が混じっている。

私が同じ私であり続ける保証はないから、より厳密には

考えや感じが存在すること

が間違いない。

だから、

センスデータは間違いなく確実に存在する

証明終了。

そしていよいよ本題へ。

センスデータは、物質が存在しているということをも示す

といえるか?

テーブルは、

見えていないときも存在し続ける(ように思われる)。

例えばテーブルクロスをかけたら視覚によるセンスデータはなくなるが、実際はテーブルクロスをどけたらセンスデータはまた生じる。

だから、

感覚と無関係にテーブルは存在する=物質は存在する

と考えない方がおかしい。常識的に考えて。

しかし、

常識にひるむようなら哲学じゃない。

では、

誰か別の人と、同じテーブルについて話ができる

という事実はどうだろう。

それは、感覚から離れてテーブルという実在があることを示していないか?

いや、これは根拠に使えない。なぜなら、今証明しようとしている

物質の存在

が確かでないなら、そもそも

私しか存在しない

のであって、他人が存在するかはまだ分かっていない。

hahaha…

1957年のラッセル

お手上げだね!

というか…

物質が存在しない、私しか存在しない、とする可能性は排除できないけど

正しいとする理由も特にない

し、

単純さに劣る

からよろしくない。

だから

物質は存在する

のだ。

以下、存在の検証を上回るページ数を割いての言い訳。

試されたラッセル

信じられないですけど、これが第2章におけるラッセルの振る舞いです。

デカルトの紹介までは良いです。まさに、哲学入門のタイトルを冠すだけはあると言えます。

デカルトが持ち出した

欺く神

を使っての常識を疑う論理展開は、第1章でのラッセルによる常識破壊よりずっと明解で簡明です。

入門するならラッセルよりデカルトの方が良いのは間違いない…(^-^;

そして、デカルト引用が終わってからのラッセルの挑戦は…色んな意味で、ただの敗北にしか見えません。

とはいえ、せっかくですので敗北に終わったラッセルの挑戦を検証してみようと思います。

本能的信念

感覚が成立していない前後で

継続して同じようなセンスデータが生じる

ことがあります。

ラッセルはテーブルクロスの例を出してますが、あんまりいい例ではありません。

テーブルにテーブルクロスをかければ、確かに色のセンスデータは消えます。

が、形のセンスデータは消えませんし、場合によっては手触りのセンスデータもテーブルクロスだけのものとは異なるものとなる形式で存在し続けます。

もう一つの例はまだ分かりやすいと思います。

テーブルのある部屋から出てテーブルが見えなくなる

と、当然テーブルについてのセンスデータは消失します。

が、その部屋に戻ったら

部屋を出る前と同じセンスデータが生じます。

テーブルが持ち去られた、などの特殊な事情がない限り、ですが。

しかしどっちの場合でも、感覚から独立してテーブルという物体が存在するからだと考えるのが自然です。

逆に、「私しかいない」という世界観だと、本当はテーブルという物体は存在しないのに、

まるで物体が存在すると仮定したら自然なように

センスデータを生成する、という無駄に複雑なことをしていることになります。

複雑なうえに、不思議なことが起きています。

そもそも物体の存在を事前に知っていた

ように思われることです。実際には存在しないはずなのに。

この、まるで

事前に知っていたかのような考え

を、本能的信念とラッセルは呼びます。

そして、実は本能的信念こそが拠り所とすべきもので、整合性のある本能的信念の体系を構築していくのが哲学だ、と言います。

ラッセルのまずいこと、3点

とはいえ、そもそもこの本能的信念は、前章であやふやで信頼できないとした常識とどう違うのか、そこの線引きは微妙です。

ラッセルも、本能的信念と思われる場合も、検証は必要だし、勘違いの可能性はあるとしています。

をいをい。

ここでのラッセルが非常に胡散臭いのは、この章冒頭でデカルトが

論理だけで自分の存在を証明

してしまっていることを紹介済みだからでしょう。

清々しいデカルト、胡散臭いラッセル。

ってなってしまうっつーの。

これが

まずいこと①。

もっとも。

そんなデカルトだって、

自分の存在証明から先

は誰も引用しないような、要するに胡散臭いことを言っていたような気もします。

ただし、ラッセルはそもそもこの段階で何も生み出していないわけで、やっぱりデカルトとの間には「越えられない壁」があるように感じます。

もう2つ、ラッセルはまずいことをしています。

まずいことその②はご都合主義的手のひら返し。

感覚は実在そのものを表さない

そしてそのことに日常感覚では気づいていない、勘違いしているとラッセルさんがドヤ顔していたのは記憶に新しいところ。

ところがこの章では、本能的信念の揺るぎなさを説明するために、

感覚が実在そのものを表さない、なんて実はみんな気づいてる

と立場を翻してしまっています。

むしろ、

匂いや音に関しては、感覚が実在そのものだなんて誰も思っちゃいない

とまで言っています。

まあ、確かにそのとおりですけど(^-^;ずるくない?

第1章では視覚と触覚について「だけ」触れておいて、第2章では視覚と触覚の場合「だけ」に勘違いが起こる、とラッセルは言うのです。

読者を勘違いに誘導したのは誰だと(^-^;

そして最後が一番致命的。

まずいこと③は、検証が不十分

ということ。

誰も納得しないでしょう、こんな程度の議論では。

そもそもの話…物質が存在しない、という状況を「私しか存在しない」に限定していいのかは疑問です。

「私しか存在しない」以外にも、

「私と欺く神しか存在しない」

は想定可能です。

同様に、「私と、私と似たような存在と、欺く神だけ」も想定可能です。

私達は物質があると思いこんでいるので、「欺かない神」のパターンはなさそうですが、なんとも言えません。

余談

ラッセルは、主に視覚が実在を誤認させる一方で、匂いや音に関しては誤認させることは殆ど無いとしています。

実際、普通は匂いや音はそれこそ存在を匂わすくらいのものだと思います。

要するに、感覚の信頼性は実在に関しては

視覚>触覚>聴覚・嗅覚

だと言っています。これはまあ、そんなにおかしなことでもないでしょう。

あ、人間にとってはwですよね?

犬にとっては嗅覚は非常に重要と言いますし、視覚に頼らない生物はたくさんいると思います。

人間に話を戻しましょう。実在を感じる度合いは、視覚が一番優位だという話です。

一方で、限られた状況ではありますが、聴覚=声に信頼を置くという面白い視点もあります。

僕はPerfumeが大好きで、『VOICE』という歌の歌詞を思い出しました。

見えることは不確かで

という、視覚情報への不安が歌われる一方で、何度も繰り返されるコーラスパートでは

Everything you need to know. The Voice

声こそが本物、と言っているのです。

あんまりこんなこと言う人はいません。

でも歌を聴き込むほどに、この要求の切実さが沁みてきます。

面白い切り口だと思います。

中田さんの方が、ラッセルより人間観察力はあるんじゃないかな?w