ラッセル『哲学入門』③第1章の補足「画家が追求するもの」

いよいよラッセルが、肯定的で建設的な議論を展開すると思われる期待の第2章に行く前に。

色々と気になることのあった第1章の中から一つ取り上げておきます。

未だ不明確な

「現象と実在」

を掴むための考察につながればいいと思いつつ…この本、そんなに簡単ではありませんので。

本文を再確認します。

画家が出てくるまでの流れ

「直接的な経験により知られることに関する言明」は不確かだ

という議論の中でのこと。

日常感覚で私達は

「感覚(経験)で受け取る情報により、対象そのものの性質を知ることができる」

また、それは

「経験を介さない伝聞などの情報に比べて確かなもの」

と思っています(この対比は本文にはありませんが、わかりやすくするために僕が付記しておきます)。

なぜなら、自分が経験したことから得られる情報は、何より確かなものだと思いこんでいるからです。

本当かどうかもわからない誰かの話よりは、自分が実際に見て触って感じたもののほうが、確かさは上のように思われます。

でも、残念なことにこの

直接的な経験自体

が危うさを持っています。

ラッセルはその事例を数多く挙げてしましたが、簡便にするために「色」にだけ絞ります。

テーブルの色が茶色に見えたとして、それをもってして

「テーブルは茶色い」

と考えるのは間違いです。

たまたまその時の光の加減、見た角度、見る側のコンディションで茶色に見えただけす。

そんなふうに

テーブル以外の要因に左右されるような「茶色」はただの現象に過ぎない

というのです。

ここで余談。

でもさ、そもそも茶色ってなんだよ?って話ですよね。

視覚が受け取った色情報を、言葉だけでどれだけ正確に表現できるか

という話。
言葉が持つ危うさ、限界こそがここでの問題の真相のような…この疑問、この記事が終わってからも継続審議します。

画家登場

さて、そこで議論はメインテーマである

現象と実在の区別

へとなだれ込んでいきます。

とはいえこの2つは二項対立でもなく、関係性も難解な概念であり、導入には慎重な準備がほしいところ。

恐らくはその目的でラッセルが持ち出したのが画家です。

おさらいですが、

テーブルの色はthe colorとでも言えるような一つの色で表すことはできず、条件によって多様に揺らめくもの

なのですが、

この揺らぎは画家にとって何より重要

だというのがラッセルの見解です。

ここで、一般人、画家、哲学者が登場して、それぞれの「現象と実在」の考え方をラッセルは述べていくのですが…わかりにくい(^-^;

整理してみると

  • 一般人:「現象を実在と勘違い」している
  • 画家:「現象を実在と勘違い」することなく、揺れ動く現象を現象のまま見ることを追求する
  • 哲学者:「現象を実在と勘違い」することなく、実在が何なのかを追求する

一般人は区別できていない「現象と実在」というものがあり、画家は現象にこだわり哲学者は実在にこだわる、といったところでしょうか。

本当にそうならば、これは分かりやすい分類になりますがwそんなに事態は単純ではありません。

哲学者、画家、一般人の順に確認していきます。

哲学者にとって大事なのは実在か

ラッセルが厳密な言葉遣いをしていないので、現象がなにか、実在がなにか不鮮明なままであり、しかもこの二項は対立しておらず(部分的には対立するところもあるとはいえ)、考え方の異なる別種の概念であるとも言えます。

部分的に対立している、というのは、例えば感覚に対する立ち位置があります。現象は感覚により生じるものであり、実在は感覚では感知できないものとされています。しかし同時に、実在は現象を構成する要素である可能性もあり、実在と現象はイコールではないものの、実在は現象に影響を与えるものと考えられます。その意味では、関連性がある2つとも言えると思います。

なのでこの状態で考察を進めるのは危険なのは承知の上で、それでも思わずにいられないことがあります。

それは、現実的には人間が日々接している「現象」についての方が、特に近代以降の西洋哲学にとってはより重大なテーマであるように思われるということです。

仮に聞いてみたいのですが、実在、と言われて思い浮かぶ哲学者って誰ですか?

僕の場合

カンタベリのアンセルムス

くらい(中世の普遍論争でしたっけ?)です。

一方、現象で思い浮かぶ哲学者の方はというと、

ヘーゲルやフッサールなど

であって、現代はもちろん、ラッセルの時代にも主流を構成していたのはアンセルムスよりこちらのはずと思います。

ただし、僕はヘーゲルもフッサールも解説書で目にした程度で、著作を読んだわけではありません。ですから、現象を論じるといいつつも実際は実在に関する議論をしているのかもしれません。

しかしそうであったとしても、

現象を差し置いて実在を追い求めている

とまでは言えないでしょう。

ラッセルはここで、哲学者が「実在にこだわる」と言ってもいいですけど、正しくは

「それと等しく現象についてもこだわるし、何であろうと可能性がある限りこだわって考察をし続ける」

というべきだと思うのです。

と思って再読すると…哲学者は「現象を実在と勘違いしない」ということと、「実在を追求する」ことは言っているものの、

哲学者にとっての現象へのスタンスについては何も述べていません

でした(^-^;
別のところで、哲学者は何だろうととことんまで議論をし続けるということも言っていたので、まあ僕の批判は的外れだということになるでしょう。

でもそのような誤解を招くような構図が展開されているように思うんですけど(^-^;

一般人と画家と哲学者という三者は、

現象と実在という概念の違いを浮き彫りにさせるために選びぬかれた

というよりは、もっと

ラフな気分

で持ち出されているのかもしれません。

ラッセルって哲学者というよりは風貌が英国紳士だし?(^-^;デスク横に印象派の絵画でも掲げてあって、それが目に入ったとか?

では、画家にとっては?

お次は画家です。

画家は、ラッセル的には現象重視というふうに書かれているように僕には思われました。

確かに画家は、

感覚で受け取った色情報を短絡的にその対象そのものの色として受け止めてはいない

でしょう。

テーブルが部分や光の加減によって多様な色を示すことはわかった上で、それを表現しているのは明らかです。

これはルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットですが、光が与える影響を手前の背広であったり、ダンスしているカップル周囲の地面で表現しています。

まあ、そんな部分的なものではなく、絵全体で差し込む柔らかな光が表現されています。どういう技術があればこんなことができるのか、全くわかりませんけどすごくいい絵ですよね。

また、画家ではありませんが、日本の写真家土門拳も面白いことを言っています。

例の、平等院鳳凰堂を激写したあの一枚を撮ったとき、

平等院鳳凰堂が走って逃げていくところだった

というのです。

感覚が受け取るものが固定化された対象の性質だなどと勘違いしているようでは、こんなほんの一瞬を撮影することなど到底ムリな話です。

ということで、ラッセルが言うようなことは芸術家全般に当てはめられるかもしれません。

しかし、そうだとしても、画家の関心が現象に偏っている、とまでは言えないと思います。ラッセルはそこまで言っていませんが、構図的にはそのように誤解されても仕方ないと思うので、以下その点について述べてみます。

画家が追うのは現象だけか

ルノワールのムーラン・ド・ラ・ギャレットは、

無限に漂うその現象の数々の中から、本質的なものを抜き取ってしまっている

ように思われます。

ラッセルは、

現象は色々に変幻するが、そのどれもが同等

だと言います。

しかし画家は、その中でも明らかに特別なものを選び抜いているように見えます。

それは単に色彩的な美しさに基づく配列に過ぎないのでしょうか?

あるいは

本質を捉えている

という考察もできなくはないと思うのです。

あ、ラッセル的には実在でしたっけ?でも実在だとわかりにくいので、敢えて本質としておきます。

より端的にこの事情を示す例としては、よく引き合いに出される例ではありますが、ピカソの絵を見るのがわかりやすいでしょう。

ゲルニカの一部で、子の屍を抱く女とウィキペディアに説明されているものです。

この絵は、形の点では全く見たままではなく、大きく異なる形状で描かれています。

だというのにも関わらず、見る者に与える強烈なインパクトがあるのはなぜ??

ピカソの絵には、

現象という表向きの背後にある何かしらの本質に迫るものがある

ように思います。

哲学者がぐだぐだと長文を弄しても、結局たどり着けないようなところにダイレクトにたどり着いてしまっているような名画たち。

あれ、それじゃ僕は哲学書なんか読まずに絵を見るほうが遥かにスピーディに本質に迫れるのでは?ww

では一般人は?

ジョークはさておき、最後に一般人について。

一般人は、現象と実在の区別ができていなくて、現象を実在と勘違いしているというのがラッセルの考えでした。

ここまでと同様、それはある意味正しく、ある意味間違っています。

例えば、

夕焼けのときに世界が別の姿を見せること

は、別に芸術家ではない一般人でも知っています。

テーブルの色については確かに勘違いしているかもしれませんが、現象に過ぎないものを何でもかんでも実在だなどと勘違いしているわけではないでしょう。

やはり、これは言語上の表現の問題なのではないかと思うのです。

テーブルの色は茶色

だと言った場合に、まるで

テーブルの本質的な色を言っている、分かっている

ような言い回しになってしまうこと。が、問題なのではないかと。

一般人である僕も、部分的には現象が実在とイコールではないことを知っているからこそ、ラッセルが説明することによって「そういえば」と納得することができるのだと思います。

で?

結局、現象と実在って、何なんだ???

芸術家の事例から、どうやらラッセルが言うように

現象はそのまま実在とは言えない

ものの

現象の中に実在が潜んでいることはありうる

と言うことは言えるかもしれません。