ラッセル『哲学入門』②第1章研究

2019年1月4日

ずっこけるはずのラッセルをいやらしく見守りつつw始まった『哲学入門』の研究。

さっそく第一章から読み解いていきます。まずは僕の要約から。

ちなみにですけど、

盛大な誤読によりこの章をもってして本全体を称賛するレビュー

をよく見ます(^ー^;
その点についても後ほど触れます。

第一章「現象と実在」要約

日常感覚的に確かなもの、とされる、

直接的な経験に基づく言明。

これが、実は

確かなものとは言いにくい

のだ。

例えば眼前にテーブルがあったとして、それを実際に見て、茶色い、とか、硬い、とか、四角い、とか言う。

これらの表現は

すべて厳密には間違っている。

という事情を明らかにするために、現象と実在という区別をしてみる。

現象とは、

対象そのもの以外に環境やら主体やらの条件によって様々に移ろうもの

のことで、

対象そのものだけを表すものではない。

実在とは、現象とは異なり

その他の要因(少なくとも主体)に左右されない対象そのものが持つ性質

を意味する(とする)。(現象との対比で性質の一種みたいに受け止めていましたが、それだと実在という言葉にそぐわないし、実在の性質を後ほど議論するので訂正しました)

すると、私達は実体験を持ってしてさも実在が存在するかのように「色」や「硬さ」や「形」を表現するが、それらはすべて現象に過ぎないことがちょっとの考察で明らかとなる。

【ここで常識が壊される】

では、

実在とはなんぞや??

2つの問を設定しよう。

(1)実在はあるか?(2)あるとしたら、どんなものか?

(直後、しれっと問は次の表現に改められる)

(1)物質は存在するか?(2)物質の本性は?

(本性とは、他に影響されない性質ということでここまでの議論で言うところの実在と同義)

この問いに対し、バークリがなんの不合理も来さずに、

物質は存在しない

ことを明らかにしている。

(つまり、(1)の答えがNOということを、論理的に証明できる!すごい!)

しかしつぶさにバークリの議論を追うと、実は(1)は暗黙の了解で否定していなくて、(2)に対して変わったことを言っているだけなんだけどね(*ノω・*)テヘ

変わったこと、というのは、

物質は心と無関係ではありえない

ということ。このことを観念論といって哲学の世界では多数派を形成している。

いずれにしろ、そんな変な人達であっても、問の(1)は否定しない。

つまり、実在・物質は存在すると考えている。

ホントにそうか?ということを、2章で考えてみよう。

第一章のポイント

この第一章は非常に読みにくいです。

その原因は、タイトルにもしている

「現象と実在」

についての

言葉の定義をしていない

というのがまずひとつ。

定義をしない、ということは無定義語として扱いたいということなのかもしれませんが、残念なことに現象も実在も日常感覚からかけ離れた意味で使っています。

国語辞典にはどちらも哲学での意味を記載しているような、有名な哲学用語ではありますが、本文に即してさらってみます。

現象、といったときに、日常感覚では主観から離れた外界で起こったなにか、といった印象があるのに対して、ここでは対象以外の性質(光の向きなどの環境要因や、視覚特性などの主体側の要因)に左右されるものという意味で使っています。

一方の実在についても、日常的には空想と対比されて頭の外、現実世界に存在するものといったニュアンスがあるのに対して、ここではその他の要因(少なくとも、こちらがどう見るか)に左右されない、そのもの固有の性質・存在?自体といった意味で使われています。

これらを自力で読み解いた上で、本題であるところの実在はなにか?という議論ですが、これがフラフラ揺れていて定まりません。

ラッセルは、現象と実在の2つの分類を持ち出したあとで、問が2つあるといって上記(1)と(2)を持ち出しますが、この

問題提起がそんなにうまいものではない

のが第二のわかりにくい要因。

(1)そもそも実在はあるか?という問いは、実在の定義を厳密に行っていないので、唐突な印象を与えます。

むしろ、どうして私達は現象みたいな揺れ動くものしか感覚では捉えられないのに、さもそれを実在を捉えたように認識するのだろう?といった、日常感覚に立脚した展開をしたほうが、もっとスムーズだったと思います。

もちろん、西洋哲学的には現象と実在の議論なんて常識なのかもしれませんが、先走り過ぎ、という印象です。

ここで壊された常識について

浅いレヴューでは、この章で行われている常識の破壊を称賛したものが頻繁に見られます。

哲学により常識が見事に覆されたワオ!みたいな。アマゾンレビューとか、グーグル先生紹介記事などで非常によく見られます。

どう考えるかは人それぞれですから、それもその人の勝手ではありますが、

感覚が確かなものを与えない

ということは小中学生くらいで普通は気づくものだと思います。

ラッセルはテーブルの色や手触りを身近なモチーフとして提示していますが、もっとわかりやすいのが寝ている間に見る夢や、だまし絵にあるような錯覚といった現象でしょう。

同じ色なのに同じ色に見えない

どちらについても軽くではあるものの、後ほどラッセルも言及することになります。

でもどうせ言及するなら、最初に持ってきたほうがわかりやすかったような…

いずれにしろ、ここで提示されていることは哲学的にも本書で展開される議論的にも、あくまで序の口に過ぎず、ラッセルの功績でもなんでもないために本来レヴューするようなことではありません。

タイトルだってあくまで「現象と実在」ですから。まあ、その現象も実在もこの章では説明不足だからいけないんですけど。

ちなみに、

目の前に見えるテーブルや猫が実際は存在しないかもしれない!

などと「言うことはできる」とは言われているものの、むしろそんな考えは採用するべきでないというのがラッセルの意見です(次章以降になりますが)。

もしもそんなレヴューがあったとすれば、それは

盛大な自爆

というやつです。

表現に注意して、壊された常識が何かを確認する

この常識の破壊は前半のハイライトではありますが、きちんと区別しておかないと勘違いを引き起こしそうな表現満載ですので、注意深く確認しておきます。

まず、

確実と思っていたけど確実じゃないのは、経験そのものではない

ことを見逃してはなりません。

本文に即して言い直すと、

直接的な経験によって知られたことに関する「言明」は、どれも間違っている可能性が非常に高い

のです。

この、「言明」というのがミソですので、色々試してみることにします。

  • 目の前にテーブルがある
  • 目の前にあるテーブルは茶色い
  • 目の前にあるテーブルは硬い
  • 目の前にあるテーブルは長方形だ

これらは直接的な経験によって知られたことに関する言明ですが、下3つは間違っていて一番上は間違っているかどうか第一章の段階ではまだわかりません(たぶん間違っていない、というのが第一章での理解)。

色や手触り、形は条件により異なる「現象」であって、テーブルの性質がそうであるかのように表現するのは間違っているからです。

見方を変えれば白くも黒くも見えるし、ザラザラしてるかもしれないし、台形にも見えるわけで、それらはすべて間違っていないので上のように固定的に言うのは間違っている、というわけです。

では、こうするとどうか?

  • 目の前にテーブルがあるように思える
  • 目の前にテーブルがあるように見えてそれは茶色に見える
  • 目の前にテーブルがあるように見えて(触られて)それは硬い手触りがする
  • 目の前にテーブルがあるように見えてそれは四角く見える

こうなると、全部間違っていないことになる(はず)です。

テーブルがたまたま茶色く見えたのを、それをテーブル本来の色だと判断するのが間違っていただけで、見えた事自体は否定されていませんし、吟味したところで間違っているとも言えないはずです。

つまり、感覚したこと自体は間違っていない、というのが第一章での隠された重要点です。

直接的な経験によって知られたことに関する言明の中には、間違っていないものもあるのです。

中盤、突如センスデータという言葉が導入されますが、それはこの感覚したこと自体は間違っていないという事実を利用するためです(この章では利用しないくせに、なぜここで導入したラッセル…)。

センスデータは感覚により受け取った情報のことで、おそらくは感覚に解釈を付加したものみたいな意味なのでしょうが、感覚とセンスデータの区別はそこまで明確ではないため、なかなか難解な言葉となってしまっています。

なんとなく、ラッセルは哲学者としては大したことないんじゃないかって不安がよぎりますw

ところで、このように表現をちょっと変えただけで間違ってたり間違ってなかったりする、という事態からして、要するに言語上の表現の問題なのでは?という気がしてきます。

どういう言説が間違ってて、どういう言説なら間違っていないのか?は、検討の余地があると思います。

一応、僕が思ったのは、

主語が自分で、述語が知覚系の表現なら間違っていない

ということは言えると思います。これは夢や錯覚の状態も含めて、間違ってはいません。

バークリって何が言いたいの?

登場した瞬間は持ち上げられたものの、その割と直後で否定されてしまう可哀想なバークリ。

彼は、

なんの不合理も起こすことなく物質の存在を否定した

ということで称賛されていますが…(非常にネガティブな見解ですので、ラッセルは好まないでしょうね)

この、物質というのが曲者で、心と無関係なもの、心と切り離されたものという意味での物質に過ぎません。

ラッセルに言わせれば、そもそも物質とはそういうものらしいです(まあ日常感覚でもそうですが)。

バークリは

この意味に限った場合の物質は存在しない

と言っているだけ。

で、そうじゃない物質「的なもの」は存在するとバークリは言っているらしいので、彼の功績を

「物質が存在しないことを証明した」

とするのは悪質なキャッチコピー会社やクソブログの手口に似た、

非常にせこい手法

だと思います。

実質的には物質は存在しないというよりは

物質には変な性質がある

というのが彼の説の正しい説明かと思います。

事実ラッセルも後ほどそのように説明を言い換えています。じゃあ最初っからそういえばいいのに…

ここの展開が、上の要約でも錯綜してしまっていますが、本文でもどうしようもなく混乱しています。下手くそか、と突っ込みたくなるくらいです。

バークリは観念論の代表としてライプニッツとともに登場させられていて、観念論というのは

存在するものはすべて心と関連がある、誰かの心に認識されていなければならない

と考えるらしいです。

誰の心にも認識されないものがあるとすると、それは

「全く知りえない」ものが存在することになる

という不合理が生じるらしいです。別によくね?w

ラッセルはこの考えに否定的で、否定的だからか知りませんが、

ものすごく雑に紹介

してます。理解させる気ないだろラッセル?

まあ、勝手にしやがれといえばそれまでですが‥しかし、雑な紹介の末にディスったところで、それって要するに

お前がちゃんと理解してないだけじゃね?

とこっちは思っちゃうので、非建設的だと思います。

後の章で「観念論」というタイトルも登場することですから、ここでは触りを扱っただけなのだと友好的に解釈することにします。

実在は未踏の地

ラッセルの文章はネタフリも展開も特筆すべきものの無いふつーな印象ですが、最後の最後だけはちょっとおもしろいことを言っています。

それは、実在の性質に関しては科学も含めて無法状態に好き勝手なことをいっている、という箇所。

観念論者にとって、それは心が関わるものというのがこの章で述べられたことですが、科学だって負けていない、だって

「膨大な数の激しく動き回る電荷の集まり」

だなんて言ってるんだから、と。

なるほど、そう言われてみると、順を追って理解することで僕たちは原子論や原子がさらに細分化されるというこをなんとなく理解しているような気がしますが、確かに

日常感覚からはかなり外れた議論

なのは間違いありません。

ということで、観念論がいかに胡散臭くても、確かなものが壊されたあとには一考の価値があるというのは言えるかもしれません。

そもそもが、

実在は常識なんて通用しない世界

に関することのようですので。

しかしそうだとすると、

常識の通用するように見えるこの現象界

の性質の方も、非常に気になってきます。

ネタフリとしては、そこまで悪くない。第一章はそんな印象です。

第二章に続く。